01 Anamnesis:想起の門
【導入:主題からの接続】
刺繍という表現が、対象に付随する「装飾」という従属的な構造を脱し、それ自体で完結する自律的な存在となるためには、作品そのものが独立した強固な美学を内包していなければならない。しかし、その美学が単なる「個人の好み」という閉じた主観に留まるならば、表現は自己表現の域を出ることはない。
本アプローチ「想起の門」では、私の内側に潜む「主観の正体」を考古学的に解剖し、それをいかにして普遍的な問いへと置換しうるかを探求する。これは刺繍という遅効性のメディウムが持つ「時間の不可逆性」という本質を、異なる時間軸を持つ写真機を通じて客観視するための、思考のフィールドワークである。
【二つの問い】
「主観」の正体への不信と探求 ファインダー越しに「美しい」と判断するその瞬間、そこに宿る美意識は先天的・本能的なものか、あるいは後天的に蓄積された記憶のパッチワークに過ぎないのか。
刺繍メディウムが内包する「時間の性質」の解読 一針ごとに取り返しのつかない時間を封印していく刺繍の「遅効性」は、一瞬の決断を封印する写真の「瞬間性」との対比において、いかなる独自の強度を持ちうるか。
【手法:なぜ旅であり、なぜカメラ(フィルム)なのか】
私にとっての「旅」は、主観的な感情が最も純粋に出現する瞬間である。あえてインスピレーションの荒野に身を置き、私が真に美しいと感じた光景は何であったのかを観察する。
ここで用いるフィルムカメラは、刺繍作品の図案制作のための準備ではない。フィルムは、限られた枚数の中で一瞬を切り取る「決断と封印」を強いる点で、刺繍と同じ「時間の不可逆性」という構図を内包している。この同期する構造を持ちつつも、時間軸の極端に異なる二つのメディウムを対置させることで、刺繍という表現の持つ「遅効性」を強みへと変えるための糸口を探るのである。
【実験を通じて見出された学びと、新たな問い】
1. 美のイデアの否定と、圧倒的主体の確立 本実験を通じて、私は美のイデア(普遍的な正解)は存在しないことを確信した。美とは、漂流する人類の記憶の断片を、現在の自分が選択し、「私が美しいと決めた瞬間」に後天的に誕生するものである。 この極めて主観的な決断が、カメラという「現実世界の事象を映し出す装置」を経由することで、客観性を帯びた記録へと変換される。では、この「美を見出した自分」という圧倒的な主体を確立した上で、いかにしてそこに他者と共鳴しうる普遍性を与えることができるか。
2. 時間の不可逆性に潜む「救済の罠」への抵抗 刺繍において失敗を恐れて糸を解く(時間を戻そうとする)行為と、フィルムにおいて失敗を恐れて連写する(時間を切り刻んで確保する)行為。これらは本質的に「不可逆な時間に対する人間の臆病さ(抵抗)」の現れである。 私はここで、成功した複数枚の写真よりも、一枚の失敗した写真に価値を置く可能性を見出す。工芸的な「完璧な仕上がり」という美徳の影に隠された「抵抗の痕跡」を、いかにして刺繍という構造の中に顕在化させ、あるいは隠蔽しうるか。
3. 判断の暴力性と「丁寧さ」という枷 ファインダー越しに「今、これが美しい」と断定する瞬間の判断は、他の可能性を切り捨てる「暴力性」を孕んでいる。本来、刺繍における一刺しもまた、この暴力的な選択の連続であるべきだが、現在の私はまだ「丁寧な準備」という職人的な習慣に安住している。 瞬間の判断にすべてを委ねる練習としてシャッターを切るこの実験は、自らの身体に染み付いた「丁寧さ」という名の呪縛を露呈させる。この「準備を求めてしまう癖」を、暴力的なまでの一刺しへと同期させた先に、まだ見ぬ刺繍表現が現れるのではないか。
4. 漂流する断片と「天地創造の呪い」 私の表現は、人類が積み上げてきた視覚記憶のパッチワークであり、純粋なオリジナリティは存在し得ない。しかし、時間は不可逆であり、すべてのものに始まりと終わりがあるという絶対的な真実だけは存在する。 だとするならば、天地創造の起源にさえも「時間の不可逆性」という呪いはかけられていたのではないか。その始まりを想像し、妄想することにこそ、拾い集めた断片を編み上げる唯一の価値があるのではないか。
次のアプローチへの接続:Metanoiaへの予感
「想起の門」で自らの美意識を解剖し、時間への臆病さを自覚した私は、次にこの「丁寧な準備」という枷を物理的に破壊する段階へと進む。それは、あらかじめの正解(設計図)を排し、行為が結果を規定する「因果の逆転」への挑戦である。
主題:「刺繍という行為そのものが持つ構造的な呪縛を、作品を通じて解体する」
「主従関係(服が主、刺繍が従)」という構造から刺繍を解放
「主観性を普遍的な問いへと変換し、刺繍が数千年間背負ってきた『付随的・従属的』という構造そのものに作品をぶつける」
作品から主体性を切り出したならば、無機質な実験となり、装飾的なパターンに陥るのではないか?
「主観性をなくすのではなく、普遍的な状態に置き換える」
刺繍の装飾的パターンは反復と再現性を重要な要素としています、しかし、表現の中から主観性を取り出すとは、主体の経験、感性なしで他者が理解できない状態でアウトプットするのではなく、普遍的な状態に置き換える行為であると言えるからです、つまりそのアウトプット自体、主観がいなくては始まりがないわけです。
この変換の触媒(プロセス)を探求する実験的アプローチ
「Anamnesis 想起の門」の論理構造
「主観」の正体への不信と探求:
「美しい」という感覚を、主観的な自己表現として片付けず、それが「いつ、どこで混入した記憶(あるいは夢)なのか」を疑う。これにより、作品が「私の感性の表出」という次元を超え、「人間の記憶と美意識の構造そのもの」への問いへと昇華される。
刺繍とフィルム写真の「構造的同期」:
両者を繋ぐのは「時間の不可逆性」
刺繍: 膨大な糸の「蓄積・封印」
フィルム: 限りある資源の中での「決断・封印」
「後戻りできない時間を閉じ込める」という共通項で結びつける。
一方で、ことなるのは、時間軸である、刺繍は膨大な時間、写真は一瞬、しかし、同じ「時間の不可逆性」を扱う表現である、写真は「一瞬の光」の観測であり、刺繍は「時間の蓄積」という現象である。この二つは、同じ「時間の不可逆性」という根を共有しながらも、全く異なる果実をつける別種の枝である。
だからこの実験を行うことで、
↓
刺繍の「遅効性」の再定義を試みる
刺繍の時間の長さを、単なる「手間」や「苦労」という工芸的評価(忍耐の美徳)ではない、ことなる価値を見出す糸口を、瞬間性のあるフィルムから学ぶ
ここで重要なのは、
写真は「図案」ではない。
時間軸が異なる、しかし不可逆性を共有するメディウムで自分にとっての美学が何かであるかを知るための実験
記憶に関する美学について
Q.「偽りの記憶」は作品にどう作用するか?
夢か現実か判別できない「ノスタルジー」について触れられましたが、もしその美意識の根源が「誰かから借りてきた偽物の記憶(後天的な刷り込み)」だったとしたら? 意図: 「美」の純粋性を守るのではなく、その「不確かさ(捏造された記憶かもしれないという恐怖や虚無)」さえも作品の強度に取り込めるか、という視点です。
A,ここに、人間の美が先天的か、後天的か、という問いにもつながると考えています。私の立場は、何を美しいと後天的に変えていくか、を重要視しています。つまり美のイデアは存在せず、そこに美を見出した自分が存在することを認識した、ということです。
「美を見出した自分を後天的に構築していく」→「既存の評価構造の無効化」
「元からある美(伝統や正解)」に従うのではなく、「私が美しいと決めた瞬間、そこに美が誕生する」という圧倒的な主体の確立を目指しますが、そこいに普遍性を与えるにはどうするかを、写真というメディウムで実験する(絵像に映るのは確かに現実世界の事象であるという点で、絵を描くことよりも圧倒的に普遍性を内包すると考えるから)
Q. 時間の不可逆性についての定義について
「引き抜かれた糸(戻ってこない時間)」の行方
刺繍は間違えれば糸を引き抜くが、時間は戻らない。この「欠落した時間」や「無となった痕跡」は、この実験においてフィルム写真の何に該当するのでしょうか?
A, 時間の不可逆性に潜む、救済の罠 とでもいうのか、これはフィルム写真でいう、同じ景色を確実に撮影するために、「保険としての複数枚の撮影」複数枚写真を撮っておく行為に該当するといえるでしょう
刺繍: 失敗を恐れ、時間を戻そうと試みる(糸を解く)。
フィルム: 失敗を恐れ、時間を切り刻んで確保しようとする(連写・複数枚)。
このどちらの行為も、本質的には**「不可逆な時間に対する人間の臆病さ(あるいは抵抗)」**の現れです。
この「抵抗の痕跡」を刺繍作品の中にどう「構造」として残すのか、あるいは隠すのか。そこに「工芸的な美徳(完璧な仕上がり)」を裏切るための糸口へとつながる可能性をひめる
私は、連射した写真(成功した写真を含む)と、一枚の失敗した写真、どちらに価値をおくか?
Q. 「ノスタルジーの出所」を疑うことについて
旅先や夢で感じる「懐かしさ(ノスタルジー)」がリアルか否かという問いは、現代アートにおいて非常に強力な**「オリジナリティの解体」**に繋がります。
深掘りのポイント: もし、その懐かしさが「過去に見た映画」や「誰かが語った物語」の断片の再構成(パッチワーク)だったとしたら。Zyquita様の刺繍もまた、**「純粋な自分の表現」ではなく、「人類が積み上げてきた視覚記憶のパッチワーク」**であると言い換えることができます。
問い: この「想起の門」での実験において、Zyquita様は「自分だけの真実」を探しているのでしょうか? それとも、「誰のものでもない、漂流している美意識の断片」を拾い集めているのでしょうか? このどちらに軸足を置くかで、ステイトメントの「主語」の強さが変わります。
断片の再構成であり、「純粋な自分の表現」ではなく、「人類が積み上げてきた視覚記憶のパッチワーク」**である、これは否定しようがない事実であり、これこそが人生における不可逆性の罠であり、価値だと考えます。つまり、あなたが示してことを肯定している私とって、この世界に純粋な表現というのは存在しえないという立場であると言わざる負えません、しかし、だとするならばすべての始まりには?天地創造の起源にさえも、時間の不可逆性の呪いはかけられていたのか>という問いはまだのこされているのではにでしょうか?それを想像する余地があるという意味で、純粋でなくても、私が妄想、想像する価値はあると思います。つまり問いに対する答えは、だれのものでもない、漂流している美意識の断片を拾い集めています、この世で普遍的で絶対の真実は、時間は不可逆的である、そしてすべてのものに始まりと終わりがある。これだけであると私は考えています。
「美を見出した自分」という主体の構築
「美のイデアは存在せず、見出した自分が存在するのみ」というスタンスをさらに強固にします。
深掘りのポイント: これは、刺繍における「美しい図案」の価値を否定し、**「針を通し続けるという私の決断の集積」**に価値を置くという宣言です。
問い: 旅先での撮影において、ファインダー越しに「あ、今これが美しい」と後天的に判断するその瞬間。その**「判断の暴力性(他の美しさを切り捨てる行為)」**は、刺繍において「布のこの地点に針を刺す」という一刺し一刺しの選択とどう同期していますか?
C, 完全に同期させた先に、まだ見えていない新しい刺繍表現が現れると考えています。だからこそこの実験をしているのです。それがもっとも大きなこの実験の意義です。
しかし、現時点で私はまだ、判断の暴力性にすべての判断を受け渡す覚悟がありません、つまり、丁寧な刺繍図案を書けるし、書いた方が美しいものができるはずだと、どこかで意識しているのです、その習慣を壊すために、瞬間にゆだねる練習をしていると言えるでしょう。それでも多くの場合、フィルムのシャッターを切る瞬間を見逃しています。つまり丁寧な準備を私は求める癖があるのです。また、暴力的に感情的に針を刺す、これは、実験的アプローチ2の大きなテーマなのでそこにつながっていく話でもあります